『学力と階層(刈谷剛彦)』読んでみました。

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『学力と階層』


教育社会学の第一人者、刈谷先生の学力と階層を読んでみました。ずいぶん前に一度読んでいたのですが、もう一度読み直してみました。





学力と階層



アマゾンのレビューですが
「学習資本」の階層差がますます拡大する日本の教育。これまで見落とされてきた「出身階層」という社会的条件の違いが子どもたちにもたらす決定的な差について豊富なデータをもとに検証する。子どもたちの「教育格差」の背景には家庭環境が反映していることを実証的に明かし、1990年代以降、迷走を続けた日本の教育政策の弊害を指摘する。深部で進む「教育の地殻変動」に学力問題の第一人者が説く処方箋。解説・内田樹。
(目次から)1章 階層で学力が決まるのか、学力が階層を作るのか/2章 義務教育の機会は平等に保たれているか/3章 これが教員勤務の実態だ―学校週5日制完全実施後の「教員勤務実態」調査報告から/4章 教育政策をめぐる論点、論争/5章 教育の綻びをどう修正したらいいか
となってます。

またまた面白かったところの要約と感想を書いていきます。

階層による学力格差がすさまじい


両親の学歴、父親の職業から、社会階層を作り、子供の小学校での学力と態度をみる研究を行いました。その結果、学習時間、授業の理解度が階層が低くなるほど少なくなりました。
ここまではよくある教育社会学の研究の通説通りなのですが、おもしろいのが「総合の学習の時間にまとめ役になるかどうか」を階層ごとに集計した結果、どうも階層上位ほどよくあてはまると回答していたようです。生まれが学力のみならず、学校の中でのリーダーシップにも影響がでてきてしまうという事実に非常に興味をもちました。

ゆとり教育が格差を拡げた

1989年と、2001年のデータを比較して、塾にもいかず学校にも行かない生徒(No Study Kids)の学力の比較をおこなったところ、小学生、中学生の国語、算数に関しても有意に平均点が下がったようです。

ゆとり教育の主体者である教員自体がゆとり教育に反対の人が多かった

小学校、中学校でも、「教育改革の流れが速すぎる」「改革はおおむね子供のためになっている」「改革の方針は一貫している」「事務処理の仕事量が増した」「仕方なく対応していることがおおい」「教育改革をする目的を理解している」「全体的に言うと、今の改革に賛成している」等の質問をしたところ、ほとんど過半数の回答が、ゆとり教育の効果を疑う結果になるものでした。

また、総合的な学習の時間に対するアンケートも、「子供には今までと違う学力感をつけられている」「子供にどんな力が身についたのか不安だ」「子供の遊びの時間になっている」等の質問をした結果も、やはり同様にネガティブな回答が多かったです。

標準化VS自由主義的方針


これはこの本に直接書かれていることではないことも含みます。50年代ぐらい、戦争が終わって教育を推し進めていくときは、どの学校でも同じような教育を受けられるよう、学校空間を標準化してきました。一方、21世紀に必要な知識経済のために、個性だったりとかを重視する自由主義的な改革(学校選択制、ゆとり教育等)が大事になってきているよねという話。

標準化と市場化って、よく考える議論なんだけど、よりレベルの高いものにしていくのは市場化してった法がいいんだけど、そうすると格差が広がりやすくなってしまう、だからまた標準化が必要になってくるわけで。ここのバランスって難しい議論ですなあ。

学歴社会から学習資本主義社会へ

ここが一番面白かったところ。昔までは、ある程度学歴(=知識そのもの)を獲得すれば、それが企業へのパスとなっていて、また終身雇用制度のもとで、なんとかなっていけた。学歴が企業で働いたときに、「こいつは訓練したら伸びるな」っていう、一種の確約(訓練可能説)になっていたけど、今はその制度が破たんしてきてる。

今はどんどん新しいことが生まれてきて、その中に適応していかなければいけない知識経済。単に学歴を持っているだけでは、足りなくて、新しい知識を常に吸収していく必要がある。新たな知識を主体的に身に着けていく能力(=学習資本)が必要になってくるよね。学歴ではなく、自分から学ぶ力(学習資本)によって、社会的地位が配分されているのが学習資本主義社会なんでしょう。

これは、前に茂木健一郎さん『ピンチに勝てる脳』の中で「部分最適ではもうやっていけなくて、今は全体最適の時代だ」と言っていたのとほぼ同義ですね。もう確約された雇用体系と、安定した未来は崩壊しているわけだから、どんな状況でも環境に適用できる人間になりなさいと。そのためには、自分から知識を吸収していくような人でないとだめですよっていうことなんでしょう。

履修VS修了

日本の教育機関って、そこに座って授業受けてたこと(=履修)に単位を出していて、その授業で期待される成果を出す(=修了)わけじゃないよねっていう議論をしてました。